デッサン――――素描は本来、どのようにかしてモチーフに似せて描くものだ、と私は理解している。
しかし眼前の衛宮は椅子に座して、キャンバスの衛宮はまさに投げんとする姿だ。
つまり所謂デッサンとは異なり、心の中の衛宮に似せて描こうと私は思っておりその参考に衛宮に居てもらっている。
心の中の衛宮は実体の衛宮とはそれは異なるものだろう。しかしそれはそれでいい、衛宮は一人だが他者から見た衛宮は他者の数だけあるに違いないと私は考えている。
単に、私は私の主観の衛宮を描いてみたい。ただそれだけなのだ。
・・・ああ、違った。
加えて衛宮と居たい、衛宮に他の女と居て欲しくない、という事を付け加えなくてはならないだろう。むしろそちらこそが正だろうか。
軽く背もたれに身体を預けながら、衛宮はオレンジ色の空を見ている。
「眩しくはないか」
「ん、いや」
丁度夕日を見るように、窓の方を向いて座った衛宮は顔全面に陽を受けて陰影がない。
穏やかな、それでいて何か考えるかのようなその表情。
キャンバスの中のそれとは一見離れて見えるが、否、穏やかな情熱でこのように力強く――――
いや。描き始めた時のインスピレーションでは、もっと激しい、渾身の姿ではなかったか。
しかしこの表情の衛宮、これも一面真実の衛宮であるはずで――――
一つ、息をつく。
何を、どんな衛宮を描こうとしていたか、少しブレている。
理でなく、衝動に従ってみよう。
描こうと思っていた衛宮はちと横に置いて、今そこにある衛宮を描いてみたい。
席を立ち、イーゼルごとキャンバスを交換して再度鉛筆を手に取る。
「あ、なんか、まずかったか?」
「いや、そんな事は無い。言ったとおり好きにしてもらっていて構わん」
描けていない事を察したらしく衛宮は腰を浮かしかけるのを軽く手で制す。
そんなことより君はもっと別の事を察さなくてはいけないだろう。
粗く、輪郭をとっていく。
爪先まで線を伸ばした所で、先に描いていた衛宮よりも長身である事に気づく。
夕陽を見つめるその表情は、どこまでも穏やか。
意思のある、穏やかさ。あの、透明な何かとは違う。
それは、きっと、『慈しみ』。私の想像の中で、衛宮は何かを慈しんでいる。
この表情はいい。私の好きな衛宮だ。
虹が消えるのをおそれるように、慌しく私の鉛筆が衛宮をキャンバスに描き写していく。
ふ、と顔を上げると衛宮は瞑目していた。
表情があるので眠っては居ない。
そして、口元が僅かに緩んだのを確かに見た、と思う。
やがて衛宮は、ゆったりと目を明けてこちらを見た。
その仕草は、春の雪解けのようだった。
ちらりと目を合わせたあと、私は視線をキャンバスに戻してペンを走らす。
モデルとは基本的に観察する対象で、双方向のコミュニケーションを成すものでないので、視線が合うと一寸落ち着かない。
先ほどの衛宮の残像を心に描き、それを指を介して表現する。
再び顔を上げると、今度は口をヘの字に曲げて変な顔をしている衛宮と目が合った。
――――なんだそれは。
夕飯の事でも考えていたのか。生活力のあるところも嫌いじゃないが、今はその衛宮を描きたいわけじゃないんだが。
陽が、半分沈みかける。
手元に差す光の色も赤みを増し、電気を点けてもいいがなんとなく侘びが無い。日が落ちたら、今日は終わりにしよう。
肩から背のラインを確認しようと思ってキャンバスから視線を戻すと、さっきよりも更に変な顔をした衛宮と視線が絡んだ。
わずかに肩を縮めるように視線を落として、軽く頬を掻き、変な――――口元を微妙な形にさせて再びこちらを見返してくるがどうにも視線が定まっていない。所謂挙動不審だが今日私に残された時間も少ないので、違和感もあるがともかく絵に線を加えていく。
何を考えてもいいとは言ったが、いったい何を考えているのか。
トイレは何時でも行ってくれと言ってあるし、特売の時間なら自主的に申し出てくる前科者だから違うだろう―――――
(あ・・・!)
弾かれた様に顔を上げて衛宮を見る。
忘れていた。この表情の衛宮は、何度か見たことがある。
これは、はにかんで。
照れている―――――
ある予感に、一瞬で心臓が沸騰した。
全身の血液が脳へ集まる。
いや、衛宮に限って。
そんな莫迦な。
「あ、で、電気を――――」
点けようか、と言おうとした私はきっと世界で一番空気の読めない女だったろう。
「あ、う、い、いや、いい。氷室。それよりも」
「な、なんだ」
始めの一音がかすれた事に、情けないと思う余裕も無い。
自分の心臓の爆音で教室が揺れている気がする。
衛宮ははー、と一つ息を吸う。
「好きだ。好きになった。あ、いや、なりました。もし良かったら、お付き合い、してくれ・・・ないか?」
言い切った衛宮の顔は果てしなく誠実で、壊れた私の頭脳はどうでもいい事を吐かせた。「衛宮、顔が真っ赤だぞ」
「そ、そうか!?いや、氷室もそれなり・・・だと思う」
「うん、そうだろう。嬉しくて死にそうになってしまっているから、な」
がくがくと喜びで震える足で立ち上がる。
咽喉はカラカラで、息も出来ないほど胸が熱いが、あと一言。
あと一言だけ、私に気の利いた事を言わせてくれ。
気力で、冷静さを装い言葉を振り絞る。
「衛宮、私は割りと感情を行動で表現する方だ。もし衛宮が本当にそう思ってくれているなら、言葉だけでなく態度でも示して欲しい」
言えた。
もう、一言も言えない。何か喋ったら間違いなく震え声になる。
直立のまま手を後ろで組み、目を閉じて頤を僅かに反らす。
口を閉じて静かに息をするのが苦しい。
衛宮の方からする、椅子から立ち上がる音と近づく足音。
・・・もしこのまま放置したら殺してやる。
そんな私の恐れは杞憂に、正面からぎこちなくも優しく抱かれるに任せた。
氷室、好きだ、という耳元の囁きに頷いて私は両腕を彼の背に廻すと、目蓋の向こうが暗くなる。
かくて、初めて。
初めて衛宮から重ねられた唇に、とろけながらも強く、強く自分のそれを押しつけ返した。
END