クロッキー帳を広げると、自分の額にかかる髪を少しかき上げ、そのまま後ろ髪に触れてみる。
好機の女神とやらは後ろ髪が不自由だと聞く。
むべなるかな。前髪が短く後ろ髪が長い私はおそらく彼女にとってのチャンスの女神ではないということだろう。
しかしショックだ。
ショックから立ち直れていない。
同時に、美綴嬢についての多少の感想も頭を占めている。
彼女も愚直なる人だ。
勿論それは衛宮の比ではないが。
そもそも由紀香を抱きしめるという行為自体が不自然だ。
恋知り初めし小娘が『抱きしめるってどういう感覚なんだろう』と試しているように見えたのは、少しばかり察しのよい恋敵ならば余り不思議ではないだろう。
それに『親兄弟のようなもの』。ようなもの、であるのなら当然親兄弟『であるはずがない』。”抱きしめる”と言う行為までは憚られる、彼女にとってそれなりに親しい人物となれば、私が彼女についての予備知識を持っている事を加えてしまうと5割以上の確率でそれは衛宮だろう、と推測出来る。
またこちらが意図的に恋愛関係でないと思っているように会話を誘導してはいるが、それに対しても彼女は油断しすぎでもあるだろう。
要は彼女は素朴で嘘が苦手な少女であり、その美貌と併せて人に好かれる魅力に溢れた女性なのだ。
(――――――さぞ、衛宮にお似合いな)
軽く頭を振る。
やめよう。それは己に対する敗北宣言だ。
それよりも、重要なのはあの一事だ。
『衛宮は、美綴嬢を抱きしめる事について吝かでない』
更に悪い事を付け加えるならば、『それを美綴嬢に伝えている』事だ。
それは、衛宮が多少でない好意を美綴嬢に持っている、としか考え難い。
間違いであったらいい。
そんな感情が抑えられない。
あるいは。
衛宮の秘密。
遠坂嬢。教室の密談。
美綴嬢の関係。
―――――美綴嬢に、衛宮は何か弱みを握られた?あの教室の密談で?
・・・それはないだろう。代償が抱きしめ云々ではあまりに下らなさ――――
いや、ある。むしろ十分有り得る。
『美綴嬢は既に衛宮に好意を持っている』という前提に立つならば、それは十分考えられるではないか。
あの裏表のなさ、美綴嬢が今時珍しい純情なる乙女である事はかなり想像に難くない。
恋を知った少女が、恋する相手の弱みを握ったとしよう。
望めば、ほぼ何でも言う事を聞いてくれるとしたら――――?
それを魅力的な状況だ、と思ってしまう私は心が汚れているということだろうか。
少し落ち着こう。
冷静に考えれば、素直に衛宮が美綴嬢に好意を持っている――――と考えられる。
しかし繰り返しになるが衛宮は恐ろしく嘘が苦手だ。
もしそうであるなら、本人は隠したつもりでも確実に『それらしい態度』を一瞬以上見せるはずだが、それを見た記憶がない。常時衛宮を注視している私が見落としているとは考えにくい。
―――――希望的観測でなく、衛宮は美綴嬢に少なくとも強烈な恋愛感情は現在持ち合わせていない。
明らかに挙動不審な美綴嬢。
平素と変わらぬ衛宮。
しかし、美綴嬢に抱きしめるのは吝かでないと言ったという。
それと、先日の教室でのこと。
―――――ダメだ。上手くつながらない。
落ち着け。本当に落ち着け。
今大事なのは、そこじゃない。
美綴嬢が、自覚を持ってかはともかく、何らかのきっかけにより衛宮に対してなんらかのアプローチをかけるかもしれない、と言う事だ。
それを察知できた。それで十分だ。
無意識に牽制したような気もするが気休めレベルだろう。
私のやるべきことは、可及的速やかに衛宮をオトす。それだけだ。
少なくとも、私は先行している、はずだ。
加えて、遠坂嬢のお墨付きもある。
『いきなり他人に飛び掛って全く意に介さない奴』
そう、あの時誰も蒔の字の事だとは言っていない。
あれは正に、私の事だ。
衛宮。
そろそろ、年貢の納め時だ。覚悟しろ。
「おうっす鐘っちお疲れー!飯にしようぜ・・・って、何その絵。部分模写?」
「いや、静物だったんだが。・・・ふむ、意外に私はいかがわしい人間らしいな」
「はあ???なんだそりゃ」
釣られるようにクロッキーを覗き込んだ由紀香が、目を丸くして一言つぶやいた。
「うわ、口元だけの絵がいっぱい」